
人は機械のように生まれてくるのではない
妊娠7ヶ月目の終わり頃、森美術館の「ルイーズ・ブルジョワ展」を駆け込みで見に行った。
妊娠・出産の生々しさを題材にした作品がいくつもあり、新鮮だった。そういったアーティストの作品はそういえば初めて見たかもしれない。その中で特に印象的だったのが、幼子を伴った女性がなぜか苦悶の表情を浮かべている『やり直す(内部要素)(I Redo (Interior element))』、三男の妊娠から出産後までを一連の人形で表現した『無口な子(The Reticent Child)』と、水彩の連作『妊婦(Pregnant Woman)』。
新たな命が胎内で存在しはじめることの重大さ。その過程の神秘と不調和が滲み出ていた。

妊娠を経験して強く思ったのは、人は決して機械のように生まれてくるわけではない、ということ。妊娠したら自動的に生まれてくるなんていうことはなく(恥ずかしながら、前はなんとなくそう思っていた)、妊娠後も、順調に成長して無事生まれてくるのか、誰も保証はできず、常に不確実性と隣り合わせ。何か起きたときの介入の方法も限られている。そんな現実に直面した。
そして、機械ではないということは、自分と子宮と胎児が渾然一体となった、どろどろとした過程ということだ。体内に別の生命が成立しはじめるというのは、客観的に見ると結構な非常事態である。つわりのあの気分の悪さも無理はない。喜びと同じくらい存在感のある揺らぎ、不安、異常さ。『妊婦』の生々しい赤色と、水彩のにじんだ線、胎児を表現した青色の異物感を見て、「わかる!」と思った。
人がいくつものリスクを乗り越えて、無事にこの世に出てきた時点で奇跡と言わざるを得ない。街中ですれ違う一人ひとりが、そうやって誰かのお腹から生まれてきたと思うと、世界が違って見えてきた。誰もがかけがえのない存在、という言葉の意味が実感として理解できた。
産む産まないに関係なく、性別にも関係なく、妊娠・出産の実態を知っていたら、自分がどこから来たのか知っていたら、簡単に人や自分を傷つけたりできないのではないだろうか?
展覧会直後はただ圧倒されていたが(他の作品も素晴らしいものがたくさんあった)、後から冷静になって振り返ると、ブルジョワが自身の経験を作品に昇華してくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになった。
ブルジョワの赤
もう一つ印象に残ったのが、赤色の使い方。アシスタントとの絆や、父との複雑な関係、家族など、人間関係を題材にした作品で鮮やかな赤色が使われていた。
絆とは、お互いの一部になることであり、すっきりとは割り切れない、これまたどろどろとした部分が潜んでいるということでもある。ピクセルのように切り貼りできない。血の通った関係がもたらす幸せは何にも代え難いが、それが何らかの理由で失われてしまうとき、癒着した部分が剥がれるときのように痛い(という不安をどこかに抱えながら生活しなければならない)。それが、血をも連想するような赤で表現されているように感じた。
不思議なのだが、妊娠初期のつわりが大変だった頃、それまで愛用していた赤い表紙のノートを受け付けなくなった。真っ赤な平面を見るとなんだか気分が悪くなる。買ってあった数冊のノートはメルカリで売った。
未だにこれは治っていない。体内の状態とバランスを取ろうとしているのだろうか。そんなことも思い出した。