富山の日常風景に感動する

昨年3月のメモより:

二泊三日の北陸旅行。

富山県にこんなに感動して帰るとは思わなかった。

雪を冠した雄大な立山連峰が、すぐそこに横たわっている。なんだか距離感がおかしい。

富山は何もないよ、と言っていた富山出身の友人の言葉を鵜呑みにして20年近く過ごしていた自分がいたたまれなくなった。

いや、ものすごい景色があるじゃないか。

標高3000メートル近い、雪に閉ざされた完全なる「異界」。それがすぐそこに、手に取れそうなくらい近くに見える。東京暮らしの者からしたら、とんでもないことだ。思考のスケールが揺らぐ。

富山市の「世界一美しいスタバ」近くにある展望台から見ると、水辺に建つスタバの後ろにちょっと市街地があって、その背後に突如山々が、木村恒久のコラージュのような非現実感を持って存在している。

こんな山を毎日見ていたら、深層心理が変わるに違いない。

そしてこんな山を人は毎日見ているべきだという気がする。

本当は、都会に住みたがる人も、自分より大きなものを求めているんじゃないかな。モニュメンタルなものを求める心。

それで山の代わりに高層ビルとか、タワーとか、私が近所のスーパーを出るといつも振り返って仰ぎ見てしまうスカイツリーとか、作りたがるのだろう。しかし、山には敵わないであろう。

「富山」というのも良くできた名前だなぁ。

悩んだときは、立山連峰の姿と雨晴海岸から見た日本海を思い出そう。

もう一つ気付いたのは、市街地も郊外も海沿いの小さな町も、どことなくセンスが良いということ。

まず、広告の記憶がほとんどない。富山駅構内で唯一目に留まった広告が、レコードのイベントと古本市を知らせるポスターで、それが何の気負いもない洗練されたデザインで、嬉しくなった。

あとはバスだったかトラムだったかの車体の下半分を使った広告で、群青色の背景に「〇〇石材店」と白い明朝体の文字を載せた、タイポグラフィだけの広告。潔くて惚れ惚れした。

駅の照明もセンスが良いと思ったら、ほぼ間接照明。デジタルサイネージという言葉を出すのも恥ずかしくなるくらい。素の状態で美意識の高さが満ちている。

去年初めて行ったチューリッヒも、小ざっぱりした中に色が効いていて素敵だったが、まだビルボード広告なども目についた。巨大ターミナル駅なので仕方がないけれど。

富山市はチューリッヒより広告が少なく、そのうえチューリッヒみたいにトラムがある。トラムの停留所の壁面を覆う緑色のガラス装飾が美しかった。

ここはお寿司の美味しいチューリッヒではないか。

しかも、立山連峰がすぐそこに見えて、温泉もある。What’s not to love?

街の中心部を離れても、道路沿いのトタンの掘立て小屋すら、落ち着いた緑やオレンジ、茶色で色合いがまとまっており、なんだか周囲と調和している。そういえば五箇山では、合掌造りの家につけられたパラボラアンテナが、家の外壁に溶け込むように茶色に塗られていた。

いつも山の存在が感じられることで、人が作り出すものに緊張感と謙虚さが備わるのかもしれない。

観光ガイドに載っている場所ももちろん素晴らしかったけれど、現地に行かないとわからない、土地の感性のようなものが東京とここまで違うことが衝撃的だった。これが風土と呼ばれるもの?

それを失わないでいることが、これからますます大事になってくると思う。

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